お遍路ブログ

こころの旅人雑記

奉納石でタイム・トラベラー

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お寺さんの参道を歩いていると目にすることの出来る、石碑

 

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新旧様々存在しますが、古いものであれば旧地籍で書かれていることが多く、

石から見て通る情報だけで、時間旅行まで楽しむことができるのです。

 

徳嶋縣那賀郡鷲式村

現在の那賀郡那賀町、21番太龍寺さんがあります。 この辺り

 

愛媛縣新居郡中萩村

現在の新居浜市、残っている地名としてはJR予讃線に中萩駅があります。 この辺り

 

鹿兒嶋市春日町

現在の鹿児島市、錦江湾に面した市街地です。 この辺り

 

鹿児島と言えば、明治初年の仏教排斥運動が特別激しかった地域でもあり、

四国内はともかく、この時代にお四国参りに来られるのは、異例とも言えます。

どのくらい昔の物か年代は特定できませんでしたが、鹿児島市の市制施行は1889年(明治22年)。

日本史では、大日本帝国憲法が発布された年、森有礼(もり ありのり)初代文部大臣 が刺殺された年。

偶然にもこの石が記す 鹿児島市春日町 は、森大臣の生誕地でもあります。

 

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高知市種嵜町

現在の高知市種崎、歩き遍路が渡し舟に乗せて頂く港がある場所。 この辺り

 

参考記事

平成24年2月28日 海の遍路道、県営渡船

 

写真によく出てくる 津呂村 とは、現在の室戸市室戸岬町津呂 この辺り

「海の駅とろむ」さんがあります。

この石碑群は24番さんでの物なので、近郷の集落の信者さん・檀家さんの物でしょう。

 

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東京府牛込区

東京府の施行が1868年(明治元年) 

牛込区の施行が1878年(明治11年)

東京市の施行が1889年(明治22年)

 

この石碑は「東京府」となっているので、

1878年から1889年の間に参詣・奉納されたことが推察できます。

現在の牛込は新宿区の一部で、 この辺り になります。

 

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北海道夕張郡由仁村

現在の北海道夕張郡由仁町。 この辺り

バラエティ番組で、町内を流れる「ヤリキレナイ川」がよく取り上げられます。

由仁村の施行は1892年(明治25年)

由仁町への昇格は1950年(昭和25年)

村から町へ移行するまでの約60年の間に参詣・奉納されたと考えられますが、

他の石碑の時代考証から揃って奉納されたものと見られ、

おそらく1900年前後の物ではなかろうかと思います。

お参りに来られたのは開拓使として北海道に渡った人、またはその子孫でしょうか。

 

一説には、戦前に大きな駐屯地があった街は、規模の大きな寺院があった。

またはその街から開拓使として、北海道に渡った者が多いと言われています。

 

明治初期の仏教排斥運動により寺領地没収、その広大な土地が学校や軍用地に。

失業した僧侶は、神官や軍属、または遠方の開拓に・・・ 

開拓使として北海道に渡った県別出身者の中で、香川県出身者数は上位にランクすると言われますが、

善通寺(寺)の弱体化と、戦前の陸軍第11師団(善通寺師管区)の進駐は、無縁ではなさそうです。

 

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徳嶋縣板野郡撫養(むや)桑島村

現在の鳴門市撫養町小桑島・大桑島として地名が残っており、JR鳴門駅が位置します。 この辺り

撫養港に上陸するルートは本四間の移動で最も古いものとされ

 

深日(ふけ・大阪府泉南郡岬町)  海路ー   由良(淡路島) ・・・陸路・・・ 福良(淡路島)  ー海路ー 撫養(徳島県鳴門市)

 

646年(天智天皇の大化の改新翌年) の開設と言われています。

その後の本四間移動の大きなルート変更である宇高航路(岡山・香川)開設が1910年(明治43年)なので、

本州から訪れる 旅人・商人・多くのお遍路さんが四国の土を踏むのは、この撫養の地でした。

 

この石碑は、どちらかと言えばお遍路さんを受け入れる側の撫養の人達が、

自らお四国を回って、参詣・奉納したものであると言えるでしょう。当時はもちろん歩いての参拝です。

 

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奈良縣吉野郡白銀村(しろかねむら)

現在の五條市西吉野町。地名としては存在しませんが、白銀郵便局にその名を残しています。

この辺り  白銀郵便局情報

 

奈良・橿原から大塔村・十津川村へ向かって、下市町から南下するのにこの県道を通ったことがありますが

山深い紀伊山地の山村らしい、静かな街並みでした。

 

余談ですが、

(旧)西吉野村と言えば、連続テレビ小説「カーネーション」ヒロイン、尾野真千子さんの出身地です。

  

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大分県南海部郡(みなみあまべぐん)上野村

現在の佐伯市弥生。地名としては存在しませんが、上野小学校にその名を残しています。

この辺り  上野小学校

 

上野村は1889年(明治22年)施行。

1956年(昭和31年)の合併でに昭和村に、1957年(昭和32年)に弥生村に改称、

1966年(昭和41年)に弥生町へ昇格。

2005年(平成17年)に佐伯市に合併。

 

この石碑の地籍が存在したのは、1889年ー1956年の間。

石の古さからして、おそらく戦前と思われます。

 

大分県であれば対岸は愛媛県であり、相応の交流もあったことから

古くからお四国参りが行われていたと考えても、不思議ではありません。

とは言え、四国へ渡る旅費を集落全体で出し合って、

それでいて信頼できる代表者を立てて、集落全体の為にお四国を回る時代。

奉納まで・・・ 信仰の力ですね。

 

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熊本縣天草郡

字が消えてしまって、市町村名がわからないのが残念。 この辺り

現在の天草郡は苓北町のみが該当するが、平成の大合併までは天草諸島全体が天草郡。

 

天草と言えば、天草四郎時貞に代表されるように、キリスト教徒が多いお土地柄。

そんな天草からお四国へ・・・ この石碑が表す時代はおそらく明治。

禁教が解かれ、キリスト教を表で信仰することが許された時代。

受難の時代を経て、隠れキリシタンは歓喜に湧いていたと想像できる。

とは言っても、いくらクリスチャンが多くても住民みんながそうではないので、

お四国の信者さんもいたと言うことですね。

 

それは長崎県の佐世保に八十八ヶ所があることからも、言えることでしょう。

参考記事

平成20年11月1日 佐世保のお大師さん 

 

 

左の石碑は、支那上海 とあります。

中国最大の都市であり、邦人の長期滞在地としても第一位の上海市。

戦前から日本資本の工場や租借地が数多く存在したことから、

四国出身者・お四国信者、その子孫の奉納が大陸からあっても、不思議ではありません。

 

 

◇◆◇◆ ◇◆

 

 

何も知らなければ通り過ぎてしまう、奉納石。

一つの地名を紐解いて行くと、このように時間旅行ができてしまうわけです。

それもこれも、四国八十八ヶ所が全国区であり、古来から多くのお四国信者さんによって

支えられているからこそですね。それぞれに楽しい、四国八十八ヶ所。

 

次代に受け継いでいきたい文化です。

 

 

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文 : 四国八十八ヶ所霊場会公認先達 / 四国六番安楽寺出家得度  野瀬照山

 

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